2011年1月13日木曜日

私の歴史(1)~心療内科時代

私は大学を卒業して3年間の研修を経て
心療内科を志すことにした。
もともと消化器や循環器といった臓器別の医療には興味がなく
心と体のつながりに強い関心があったからだ。
当時から自然治癒力を高めることが病気を治す鍵だと思っていたし
がんの自然治癒にもとても大きな関心があった。
そんなわけで、心療内科に道に進んだというわけだ。

最初の一年は関西医大心療内科(当時は第一内科)で学んだ。
十数人の入院患者さんの主治医になったが一人も治らなかった。
心療内科の難しさを知った一年であった。
心療内科に関する知識や技術は何もなかったので
全くのゼロから手探りで治療方法を模索するような状態であった。
教授からは精神分析は勉強しておけと言われたので本を読んで勉強した。
とても面白かったが、実際に治療にや役立たないと思った。

二年目は九州大学心療内科に内地留学をした。
ここでは精神分析や行動療法、家族療法といった
心理療法の専門家がいたのでとても刺激になったし勉強にもなった。
森田療法や認知行動療法を勉強し始めたのもこの頃からだ。

三年目は関西医大に戻ってくると同時に
京都にある洛和会音羽病院の心療内科に出向となった。
その後、ここには十年ちょっといることになった。
ここでの十年が今の私を築き上げたと言っても過言ではない。
幸か不幸か最初の五年は私一人しかいなかったので、
すべて自分の好きなようにやれた。
型にはめられるのが嫌いだった私にとって、これは好都合だった。

目の前の患者さんを治療するに当たり、どうしたらいいのか
日々あれこれと考えていた。
本屋に行き、面白そうな心理療法関連の本を見つけたらそれを買い、
使えそうな考え方や技法はすぐに患者さんに試してみた。
そんな矢先、1995年に福岡で行われた
第一回環太平洋ブリーフサイコセラピー会議に参加した。

ここでソリューション・フォーカスト・アプローチ(SFA)の創始者である
インスー・キム・バーグのデモンストレーションを初めて見た。
当時はインスーのこともSFAのこともほとんど知らなかった。
みんながその講演を聞きに行くというので私もついて行っただけだった。
終わった後の私の感想は、何の変哲もない普通のおばさんが
ただ普通のやりとりをしているだけで面白くも何ともないなあ、
というものだった。
ところが、ふと、しきりに感嘆してしゃべっている知人の声が耳に入った。
「どうみても普通のおばさんにしかみえないのに、どうしてあんなに上手く
できるのかなあ、やっぱりインスーはすごいなあ!」

私の耳からこの言葉が離れなかった。
あのおばさんはそんなにすごい人なのか、そんなにすごいことをしていたのか、
そう思ったら、がぜんSFAに興味が湧いてきた。
当時はNLPにも関心があり、大阪でのセミナーも受け、
外来や入院患者さんの治療にもあれこれと取り入れていた。
しかしインスーと出会ってからはSFAにのめり込んでいった。

自分の目的は、目の前にいる患者さんの治療だ。
そのために心理療法を学んでいたので、実際の診療で使えるものが欲しかった。
NLPの考え方や哲学は私にとてもあっていた。
しかしイメージを多用するせいか、実際の外来ではなかなか使いづらかった。
特にイメージを描くのが苦手な私にとっては、その辺もネックであった。

一方、SFAは普通の会話をしているようにしか見えず、
かつテクニックとしても使いやすかったし、発想や考え方にも共感できた。
とても気に入った。そのため外来での治療はSFAをベースに据え、
あとは色々な手法を取り入れながら自分なりのアプローチを作っていった。
逆説的アプローチやリフレーミングといった手法も取り入れながら、
色々と工夫しながらやっていくのが毎日の楽しみであった。
だから音羽病院での外来診察は楽しくて仕方なかった。
ひとつ芯がしっかりできたような気がした。

そんな矢先、理事長から本を出さないかという話が舞い込んできた。
自分のやっていることをまとめるチャンスでもあったので、すぐさま快諾した。
それが1998年4月にダイヤモンド社から出版された
「人は自分を癒す力を持っている」である。
心療内科医になって八年目の38歳の時であった。
その後2004年4月には書名を「心の治癒力をうまく引きだす」に変え、
新たなる章を加えた改訂版が築地書館から出版された。

しかしこの本を書いてから私は心理療法が下手になった。
患者さんが全然よくならなくなってしまったのだ。
本を書き進めるに従い、そうか、自分はこんなことを考えながら
いつもこうしていたんだな、といったことに気づかされることが多々あった。
つまり、自分のやっていることを文章にすることにより、
心に浮かぶ漠然とした思いを明確に意識できるようになったのだ。

ところがそうなってくると、目の前の患者さんから少し話を聞いただけで
何をどうしたらいいのかということが
すぐに思い浮かぶようになってしまったのだ。
つまり、話を聞くと瞬時に治療方針のパターン化ができてしまい
その治療枠に知らず知らずのうちにはめ込もうとするようになってしまったのだ。

本を書くまでは、一人一人の患者さんに対して、
何をどうするかを、あれこれ考えながら治療に当たっていた。
今考えると、顕在化されたパターンも持ち合わせていなかったので、
先入観や囚われなしで治療に取り組めたのだと思う。
だからこそ、一人一人の患者さんに対して最善の方法を模索できたのだ。
ところがパターンが見えるようになってからは、それができなくなってしまった。
すぐさまそのパターンが見えてしまうからだ。
そんなわけで本を書いてしばらくは、本当に治療が下手になった。

そんなことに気づいてからは、この状況をなんとか打破し、
昔のような先入観に囚われない柔軟な発想を取り戻したいと模索し始めた。
そこで思いついたのが、
すぐさま頭に浮かぶ治療パターンを敢えて使わないようにするという方法だった。
最初に浮かぶのは、先入観に囚われたパターン化された発想だ。
これを敢えて捨てることにより、
白紙の状態から何をどうするかを考えざるを得ない状況を作ろうとしたのだ。
この方法は自分にとても役だった。再び原点に立ち返ることができた。

しかし、その後次第に心療内科への興味をなくしてくことになる。
困難な患者さんが来ればくるほど、やりがいがあるし面白かったが、
どんな患者さんが来ても何とかなるかなあ、と思えるようになっていた。
そうなると、今までのようなワクワク感がなくなってしまったのだ。
時々は、やりがいのある困難な患者さんも来るので、このときは面白かった。
でも大半はごく普通の心身症の患者さんだ。あまり刺激はなかった。
そうなると、また新たな挑戦をしたいという思いが頭をもたげてきた。

そうは言っても、今さら心療内科を辞めるわけにもいかないし、
行くべき科も見当たらない。
音羽病院を辞める気もなかったので、結局そのまま心療内科を続けていた。
音羽病院での最後の二年くらいは、いつも気持ちが悶々としていた。
今後どうしていったらいいのだろうかと考える日々だった。
本来なら一番バリバリと仕事をこなしているときだというのに…。
このとき、もうすぐ43歳になろうとしていた。
To be continued
http://holicommu.web.fc2.com/9月28日のブログより転載)