2011年1月26日水曜日

EBMとホリスティック part2


では、もう一つの薬、Bはどうなるのだろうか?

Bの有効率は31%で、プラシーボとの差はわずかに1%、もちろん有意差は無い。
しかし、わずかに1%ではあるが、まれには本当に効く人もいるということになる。効果が非常に少ないが、絶対ないわけではない。無に近いけれど無ではない。
少なくとも病気に対して全くアクションを起こさないよりはましである。

しかし、わずか1%の差にしかすぎないために、「有意差なし」つまり、「効かない」というレッテルが貼られてしまうと、世の中から消えてしまう。

ところが、同じことを10万人の人で行って、同じ割合の結果つまりBは31000人が有効、69000人が無効、プラシーボは30000人で有効、70000人が無効だとしたら、カイ二乗検定で有意差が出てくる。つまり、Bは有効と解釈される。トリックのようだが、統計とはそういうものなのだ。

エビデンスといわれるものはそういう根拠に基づいている。
本当に科学的な、公正な評価には、根拠がどの程度のものなのか、きちんと認識していることが必要である。

エビデンスがあるということは、絶対ではないのだ。絶対だと思いこんでしまうところに問題がある。
「事実をどう解釈しているか」が重要である。
思い込みはフェアでない。純粋な科学的真実は、思い込みを無くすことによって得られるはずである。

ホリスティックな考え方では、AもBも否定しない。明らかに効果の高いAだけではなく、もしかしたら効くかもしれないBにだって、それなりに意義があると考える。そして、病気が治るという点から見れば、プラシーボにも効果があるわけだから、それも否定しない。

ホリスティックであるという事は、フェアな見方が出来るということだ。思い込みを根拠に否定はしない。
決して非科学的な発想ではないのだ。

各種の代替医療を、エビデンスに基づいて効くものと効かないものに分けてしまうことは、思い込みで代替療法にレッテルを貼ってしまう事になる危険性が高い。
「代替医療の科学的根拠」という言葉を聞くたびに、どうも違和感を感じる、ホリスティックから遠ざかるような気がするのはその辺に問題があるのかもしれない。

さらに考えてみる。
(続く)
愛場庸雅

2011年1月23日日曜日

EBMとホリスティック part1


今、医学の分野では、科学的な研究によるEBM(Evidence based medicine:根拠に基づく医療)ということがよく言われる。
しかし、代替医療はEBMにはそぐわない。EBMの方法論そのものが、分析的な近代科学の考え方にのっとっていないからだ。
とはいえ、今の世の中は、科学的根拠は金科玉条である。それがないと信頼されない。
そんなわけで、統合医療学会の発表でも、代替医療のエビデンスを示す発表が目立っていた。
が、どうも違和感を感じてしまう。

今、最もエビデンスレベルが高いとされているのは、二重盲検無作為割り付け比較試験のメタアナリシス(多数の論文を集めて分析する)だ。
二重盲検というのは、薬の場合だと本物(実薬)とプラシーボ(偽薬)とを、当事者である患者はもちろん、薬を出す医者にも、どちらが当たったかわからないようにして、効果に対する心理的影響をできるだけ排除するという方法だ。
科学的で、公正な試験方法である。

ただ、落とし穴がある。

ここで、仮にある病気に効くという、A,Bという2種類の薬とプラシーボの三者で比較試験を行ったとする。
それぞれに100例ずつの患者を無作為に割り当て、実験した結果、
有効率が、A:72%、B:31%、プラシーボ:30%と出たとする。
統計学的検定をすると、Aとプラシーボには有意差があり、Bとプラシーボには有意差は無い。
(註:実際の臨床試験でここまで差がつくことは少ない)

この結果、当然Aば有効な薬、Bは無効な薬ということになり、Aは保険適用もとれて、良く売れ、Bは承認されずに消えてゆくことになる。

だが、本当にそれでいいのだろうか?

もう少し考えてみよう。

Aの有効率は72%、72人の人に効いて、28人には効かなかったわけだ。逆にプラシーボは30人の人に効いて(?)、70人の人には効かなかった、という事になる。
ということは、Aを飲んで効果のあった人のうち30%はプラシーボ効果のはずである。
だから、本当にAで効果のあった人は72-30=42%の人ということになる。
つまり、Aという薬を飲んだ時に、純粋にAという薬の利益を受けることができる確率は、42%である。すなわち、半分に満たない。
残りの58%は、薬が全く効かないか、プラシーボ効果で治ったかのどちらかである。

「Aの有効性が証明された」となると、ついついAは絶対的に効くと思いこみがちである。だが、実際のAの価値は42%、半分以下。その程度のものなのだ。

もちろんAは優れた薬である。エビデンスは確かにある。
だがそれは絶対ではない。
Aが絶対だと思いこんでしまうところに問題がある。

では、もう一つの薬、Bはどうなるのだろうか?
(続く)
愛場庸雅

2011年1月13日木曜日

私の歴史(1)~心療内科時代

私は大学を卒業して3年間の研修を経て
心療内科を志すことにした。
もともと消化器や循環器といった臓器別の医療には興味がなく
心と体のつながりに強い関心があったからだ。
当時から自然治癒力を高めることが病気を治す鍵だと思っていたし
がんの自然治癒にもとても大きな関心があった。
そんなわけで、心療内科に道に進んだというわけだ。

最初の一年は関西医大心療内科(当時は第一内科)で学んだ。
十数人の入院患者さんの主治医になったが一人も治らなかった。
心療内科の難しさを知った一年であった。
心療内科に関する知識や技術は何もなかったので
全くのゼロから手探りで治療方法を模索するような状態であった。
教授からは精神分析は勉強しておけと言われたので本を読んで勉強した。
とても面白かったが、実際に治療にや役立たないと思った。

二年目は九州大学心療内科に内地留学をした。
ここでは精神分析や行動療法、家族療法といった
心理療法の専門家がいたのでとても刺激になったし勉強にもなった。
森田療法や認知行動療法を勉強し始めたのもこの頃からだ。

三年目は関西医大に戻ってくると同時に
京都にある洛和会音羽病院の心療内科に出向となった。
その後、ここには十年ちょっといることになった。
ここでの十年が今の私を築き上げたと言っても過言ではない。
幸か不幸か最初の五年は私一人しかいなかったので、
すべて自分の好きなようにやれた。
型にはめられるのが嫌いだった私にとって、これは好都合だった。

目の前の患者さんを治療するに当たり、どうしたらいいのか
日々あれこれと考えていた。
本屋に行き、面白そうな心理療法関連の本を見つけたらそれを買い、
使えそうな考え方や技法はすぐに患者さんに試してみた。
そんな矢先、1995年に福岡で行われた
第一回環太平洋ブリーフサイコセラピー会議に参加した。

ここでソリューション・フォーカスト・アプローチ(SFA)の創始者である
インスー・キム・バーグのデモンストレーションを初めて見た。
当時はインスーのこともSFAのこともほとんど知らなかった。
みんながその講演を聞きに行くというので私もついて行っただけだった。
終わった後の私の感想は、何の変哲もない普通のおばさんが
ただ普通のやりとりをしているだけで面白くも何ともないなあ、
というものだった。
ところが、ふと、しきりに感嘆してしゃべっている知人の声が耳に入った。
「どうみても普通のおばさんにしかみえないのに、どうしてあんなに上手く
できるのかなあ、やっぱりインスーはすごいなあ!」

私の耳からこの言葉が離れなかった。
あのおばさんはそんなにすごい人なのか、そんなにすごいことをしていたのか、
そう思ったら、がぜんSFAに興味が湧いてきた。
当時はNLPにも関心があり、大阪でのセミナーも受け、
外来や入院患者さんの治療にもあれこれと取り入れていた。
しかしインスーと出会ってからはSFAにのめり込んでいった。

自分の目的は、目の前にいる患者さんの治療だ。
そのために心理療法を学んでいたので、実際の診療で使えるものが欲しかった。
NLPの考え方や哲学は私にとてもあっていた。
しかしイメージを多用するせいか、実際の外来ではなかなか使いづらかった。
特にイメージを描くのが苦手な私にとっては、その辺もネックであった。

一方、SFAは普通の会話をしているようにしか見えず、
かつテクニックとしても使いやすかったし、発想や考え方にも共感できた。
とても気に入った。そのため外来での治療はSFAをベースに据え、
あとは色々な手法を取り入れながら自分なりのアプローチを作っていった。
逆説的アプローチやリフレーミングといった手法も取り入れながら、
色々と工夫しながらやっていくのが毎日の楽しみであった。
だから音羽病院での外来診察は楽しくて仕方なかった。
ひとつ芯がしっかりできたような気がした。

そんな矢先、理事長から本を出さないかという話が舞い込んできた。
自分のやっていることをまとめるチャンスでもあったので、すぐさま快諾した。
それが1998年4月にダイヤモンド社から出版された
「人は自分を癒す力を持っている」である。
心療内科医になって八年目の38歳の時であった。
その後2004年4月には書名を「心の治癒力をうまく引きだす」に変え、
新たなる章を加えた改訂版が築地書館から出版された。

しかしこの本を書いてから私は心理療法が下手になった。
患者さんが全然よくならなくなってしまったのだ。
本を書き進めるに従い、そうか、自分はこんなことを考えながら
いつもこうしていたんだな、といったことに気づかされることが多々あった。
つまり、自分のやっていることを文章にすることにより、
心に浮かぶ漠然とした思いを明確に意識できるようになったのだ。

ところがそうなってくると、目の前の患者さんから少し話を聞いただけで
何をどうしたらいいのかということが
すぐに思い浮かぶようになってしまったのだ。
つまり、話を聞くと瞬時に治療方針のパターン化ができてしまい
その治療枠に知らず知らずのうちにはめ込もうとするようになってしまったのだ。

本を書くまでは、一人一人の患者さんに対して、
何をどうするかを、あれこれ考えながら治療に当たっていた。
今考えると、顕在化されたパターンも持ち合わせていなかったので、
先入観や囚われなしで治療に取り組めたのだと思う。
だからこそ、一人一人の患者さんに対して最善の方法を模索できたのだ。
ところがパターンが見えるようになってからは、それができなくなってしまった。
すぐさまそのパターンが見えてしまうからだ。
そんなわけで本を書いてしばらくは、本当に治療が下手になった。

そんなことに気づいてからは、この状況をなんとか打破し、
昔のような先入観に囚われない柔軟な発想を取り戻したいと模索し始めた。
そこで思いついたのが、
すぐさま頭に浮かぶ治療パターンを敢えて使わないようにするという方法だった。
最初に浮かぶのは、先入観に囚われたパターン化された発想だ。
これを敢えて捨てることにより、
白紙の状態から何をどうするかを考えざるを得ない状況を作ろうとしたのだ。
この方法は自分にとても役だった。再び原点に立ち返ることができた。

しかし、その後次第に心療内科への興味をなくしてくことになる。
困難な患者さんが来ればくるほど、やりがいがあるし面白かったが、
どんな患者さんが来ても何とかなるかなあ、と思えるようになっていた。
そうなると、今までのようなワクワク感がなくなってしまったのだ。
時々は、やりがいのある困難な患者さんも来るので、このときは面白かった。
でも大半はごく普通の心身症の患者さんだ。あまり刺激はなかった。
そうなると、また新たな挑戦をしたいという思いが頭をもたげてきた。

そうは言っても、今さら心療内科を辞めるわけにもいかないし、
行くべき科も見当たらない。
音羽病院を辞める気もなかったので、結局そのまま心療内科を続けていた。
音羽病院での最後の二年くらいは、いつも気持ちが悶々としていた。
今後どうしていったらいいのだろうかと考える日々だった。
本来なら一番バリバリと仕事をこなしているときだというのに…。
このとき、もうすぐ43歳になろうとしていた。
To be continued
http://holicommu.web.fc2.com/9月28日のブログより転載)