2009年11月17日火曜日

中川米造追悼記念シンポジウムに参加して

先日、中川米造追悼記念シンポジウムに参加した。
中川先生には、私もホリスティック医学協会でお世話になったし、
個人的にも色々と刺激を受けた先生だった。
当日は他の用事があったが、それをキャンセルして参加した。

今回のシンポジウムでは、中川先生が哲学者であったことを初めて知った。
医療文化学や医学史、医療社会学、医療哲学、医学教育など
幅広い分野で活躍されていたが、
話がとてもわかりやすく、いわゆる「哲学」という印象は全くなかった。
しかし今考えると、確かに見識があり、奥が深かった。
何をたずねてもすべて知っていたという印象だ。

その一方でとても庶民的であり、誰が声をかけても
気楽に話に応じてくれた。
ある時、数人の医者と学校の先生とで一緒に飲んでいたのだが
一人の先生がふと、ヨネちゃん(中川先生の愛称)を
この会に呼びたいなあ、という提案があった。
酔った勢いもあってか、私はすぐさまその場で
先生の自宅に電話をしたところ、二つ返事で承諾してくれた。
酔っていなければ、とてもそんな大胆なことはできなかったが、
でもそんな一本の電話で、すぐさま来ることを了承してくれるほど
とても気さくな先生だった。

シンポジウムでは色々な人が発言していた。
中川先生は、自分の死を、何か人ごとにように語っていた。
死ぬことなど、別段たいしたことではないと言わんばかりだった。
この発言はとても印象的だった。
また中川先生は「自分の生命は確かに亡くなるが、
でも私のことを覚えている人がいる限り私は死なない」
とも言っていたという。

そんな思いを持っていたからこそ、
自分の死をも、こともなげに受容できたのかもしれない。
死に対する思いは人それぞれだが、
死後の世界や天国の存在に安らぎを求めるのではなく、
人の心の中に生き続けることに安らぎを覚えるところが
何か中川先生らしい気がした。

死ぬ間際にも、親友や教え子とのさりげない話の中で、
「この分野で種蒔きはした」という言葉があったという。
中川先生は、自分で何か大きなことをするとか
世の中を動かすといった思いはあまり持っていなかったようだ。
様々な分野で、様々な人と関わっていたが、
常に、来る者は拒まず、去るも者は追わずの姿勢を貫いていた。
あとは、私の思いを受け継いだ人たちが
各分野で活躍してくれたらそれでいい、という思いがうかがわれる。
私利私欲も名誉欲も権力欲もなく、とても寛容で飄々とした先生だった。

自分も、中川先生の影響を受けた数多くの人たちの一人として
何かしらの形で、その思いを形にしたいと思っている。
また、今回中川先生の生き方や考え方に触れ、
あらためて自分のこれからの人生のあり方にも思いを馳せた。
私にとっては、とても意義深い、節目となる一日だった。